一人の平凡な医師の話をしよう。名前はY氏、四十歳。東京の平凡なサラリーマンの長男として生まれ、都立高校を出て一年浪人し、地方の国立大の医学部に入った。東京の有名私大の法学部にも合格していた彼だったが、父親とおなじサラリーマンになって満員電車で通勤する生活は自分には適さないときっぱり判断して都落ちした。なぜなら、彼は都心の予備校に通学する電車の中で、ほとんど毎日のように神経性の下痢に悩まされていたからだった。地方大学の医学部での六年間で、Y氏は十キロ太った。やはり自分には地方での生活かあっているのだと確信した彼は就職も田舎町の、宿舎から自転車で通える総合病院に決め、内科医としてのスタートを切った。研修医としての二年間の生活を終えたあたりでY氏は自分のとんでもない思い違いに気づくことになる。当時の彼の肉声をそのまま再現する。「医者ってのはさあ、金も入るし女にもモテて、もうちょっとカッコイイもんだって思ってたよな。実際の仕事ときたら、死んでく患者に頭下げて、家族に泣かれてさ。末期癌の患者の家族に、あと三ヵ月の命です、なんて伝えるときなんかほんと、自分は不幸の使者だと思っちゃうんだよな。とんでもねえ仕事だよ、これは」Y氏は酒に逃げた。おぼれるところまで行かなかったのは十二指腸潰瘍になって、腹痛のために酒が飲めなくなったからに過ぎない。ストレスに弱いから東京を逃げ出したのに、これではどうにもならない。医者をやめようかと思ったことも何度かあったが、すでに彼は二人の子の父親になっていた。家族の生活のことを考えると今の仕事を続けてゆくしかなかった。